
息長川は喜連にあった、
近江息長川説は椿井政孝の偽証によるものである。
馬池谷が息長川の源流である論拠について
添付資料に従って、説明を致します。
(文中の人名に対する「敬称」や「肩書」を省略します)
まえがき
万葉集 20-4458 (鳰鳥の 息長川は 絶えぬとも 君に語らむ 言尽きめやも)は、馬史国人が大伴家持の挨拶歌 20-4457 (住之江の 浜松が根の 下延へて 我が見る小野の 草な刈りそね)に対する答礼歌として詠まれたものであるが、「この息長川が喜連にあった川で、歌宴の場所から見えていた」とする説と「息長川は摂津・河内・和泉に見えない」との理由から、「この川は近江の息長川を引用したもの」との説に分れ、近江説が万葉学界の通説となっていた。
この通説に真っ向から反対し、喜連の息長川を主張したのが、北田辺在住の三津井康純であったが、近江の息長が古文献に見える処から、これを完全に論破できず、2019年に死去された。
今般この「近江の息長川」が「古代にはその名称が存在しなかった」とする説が公表されたので、三津井の論旨を理論的に整理し、息長川の喜連説を再認識頂きたいと念じて、以下の論証を公表する。
添付資料に従って、説明を致します。
「近江息長川の偽証説」によって
近江の息長という地名が天武紀元年7月7日条に[息長の横河の戦]とあり、横河が続紀天平12年12月条に横河頓宮が見えており、延喜兵部式に横河駅が見えているとの事で、これが現在の醒ケ井付近の地とされているのに対して、「喜連で読まれた息長川が喜連に存在した事」が実証できないので、「喜連から90kmも離れた近江の息長川が万葉集 (20-4458)息長川の歌作に引用された」とする変な解釈 (*1)や不合理性 (*2)にも拘わらず、現在では通説となっている。しかし、「この川名が江戸時代に発称されたもの」と証明されたので、「通説はその根拠を喪失した」事になる。
*1 : 「河内国にあって近江の川名に寄せて詠むには少し変である」
( 鴻巣盛廣 「萬葉集全釋」 第 6 册、167頁 )
*2 : 家持と同伴者一行が「堀江を中心として住吉付近の景趣を詠んでいる」に かかわらず、主人の馬史国人の歌のみ「遠く距だった近江の息長河(ママ)を詠んだものとする」のは甚しく不合理である(大井重二郎「万葉集摂河泉歌枕考」 183頁)
井上正雄の「大阪府全志」によって
第3巻169頁には、神功皇后摂政12年に、「大々杼」の姓を改めて「息長」の姓を賜ると見えるので、「息長氏が神功皇后摂政期に存在したした事」が説明されている。また、174頁には、喜連の「息長氏」が南北朝時代(文中元年:1372年)に「北村」(ママ)と改姓したと記されている。
実際に、「喜連の北村家は滋賀県の息長氏とは、現在もご縁がある」との事で、「息長氏が喜連にあった事実」が確認できる。
「喜連・瓜破の地形図」により (松原市の掲載許可を受けている)
狭山池から東除川を水源とする「馬池谷」が「喜連」と「喜連川跡」の微高地がなければ、馬池谷が、この地に沿って、現在の喜連を北上していたので、この流れが「息長川に該当する」と推断できる。
前掲書「大阪府全志」の168頁に、仲哀天皇が日本武尊の皇子:息長田別王を大々杼家の嫡子がない処から、皇子を下し、その息長田別王が「狭山池*の水を引いて、水田を開き、息長川を掘りて、末を淀川に注がしめた」と見える。
*狭山池
考古学的通説では「狭山池は推古期に始まる」ので、「息長田別王の狭山池から水を引いた」ことは在り得ないとする反論者が多くあると考えられる。
しかし、狭山神社伝承では、「堤明神があって、古い狭山池の堤を守っていた」とあるので、崇神紀62年7月2日条に「河内狭山に池溝を開かしめ」と見え、垂仁記の后妃と皇子女之段に「印色入日子が狭山池を作る」とあるので、「現在の狭山池の少し上手に現在の狭山池よりも規模の小さい溜池が構築されていた。」と見るべきである。
「馬池谷」の断面図 (大阪市文化財協会の掲載許可を受けている)によって
図の読み方
右端のTP10.0m~2.0mの目盛は標高(東京湾水位を0mとする)を示します。
南区(南端)を重視します。
縦に並ぶ1~14bは馬池谷南区(南端)の地層の番号です。
この大阪市文化財協会の発掘Dataによれば、「馬池谷の飛鳥時代の地層(9b)はTP5.0mですから、10―5=5mの深さを有する谷であった」と判ります。しかし、奈良時代初期の地層8biはTP5.5mですから、馬池谷は(10-5.5=)4.5mの深さであった。奈良末期の地層は6でTPが6.6mとなり、作土の滞積がみられるものの(10-6.6=)3.4mの深さがあったと読めます。
ちなみに、平安―室町時代の地層2bは、TP7~7.5mですから、深さが3~2.5mの谷であった。現在では地層0は0.5~2mで、現地を訪問すると、肉眼でもその深さが推定できます。
従って、20-4458の歌が読込まれた奈良中期には、少なくとも、深さが3.4m以上はあったと立証されます。
「新大和川開鑿地方図」によって
(図所有者:大依羅神社の掲載許可を得ている)
この図面は大和川付替工事(宝永元年:1704)に反対の陳情書に添付されたもので、江戸中期にも、「馬池谷」や「西谷」が存在していた事が立証される。
しかし、この画図では、馬池谷は西谷と合流した後に北側の喜連に向かわずに、西向きに(住吉大社に向かって)流れている。詳しくは 4頁を参照下さい。
「大阪東南部治水地形分類図」によって
(国土地理院の引用・掲載許可を得ている)
「馬池谷」は「西谷」合流したが、北側の喜連は標高が7~6mであり、それより低い西向きに標高6~5mの方向に現在の長居公園通:古代の「磯歯津道」(しはすみち)}に沿って流れており、現在の「今川」となっている。これが「息長川今川説」の論拠となっている。
しかし、喜連の微高地は鎌倉時代の洪水により形成されたもので、「奈良時代には馬池谷と西谷の合流河川は、現在の喜連微高地を北上し、森 幸安の言う喜連川に至っていた」と考える( 「喜連の地形図」も参照 )のが至当である。
しかし、標高6~5mの土地に3~2.5mの深さの河川があれば、「その水流は大変なだらかなものであった」と考えられる。池や沼に棲む「にほどり」が歌宴の場所から見えたのは、「息長川の流れが極めてゆったりとしていたからだ」と考えられる。
森 幸安の「摂津國難波古地図」に見える喜連川=息長川説は「喜連の古伝承を図面の上に復元したもの」と見るべきである。
「五十間樋」の顕証碑によって
大和川の付替えにより、馬池谷と西谷はその水源を絶たれて、枯渇したものを「旧息長川」の流路に従って、運河を開削したものと考えられる。
そもそも、万葉集 (20-4458)の歌を恋に関わる歌と考える通説は、平安時代初期の「古今和歌六帖」に採録された歌が「水と鳥」の分類であるにも関わらず、これを「恋」の歌と解釈する処に誤りがあると思われる。
この歌は「新古今和歌集」(鎌倉初期)に採録された時の分類が「恋」である処に誘発された通説論者の誤解であろう。
この歌が「水と鳥」から「恋」の歌に転化した時期不明だが、源氏物語の「夕顔の巻」に「息長川」を恋の歌として引用した紫式部の解釈から見て、平安中初期には既に「恋歌」として一般に普遍していたであろうと思われる。
以 上
註 1 中公新書「椿井文書 日本最大の偽文書」
椿井政孝が作った江戸中期の偽文書・絵図について、大阪大谷大学の馬部隆弘著 2020年3月25日初版182~184頁に米原近くの偽絵図「筑摩社並七ケ寺の絵図」があり、筆者は椿井政孝が天の川を息長川と詐称したと書かれています。
註 2 『大阪府全志. 巻之3』
著 者 井上正雄 著
出版者 清文堂出版(株)
出版年月日 大正11年11月30日 初版 昭和60年7月20日 複刻版
この174頁に 喜連の旧家 : 北村家は息長氏の末裔で、文中元年(1372)南北朝時代に北村と改姓したと見えるので、古代の息長氏が喜連にあった事が推察できる。 実際に、現在の北村家は滋賀県の息長家とご縁があるとの事で、この推察は確認できる。
令和3年1月13日